竹富町出身の西塘は首里王府(尚真王時代)において25年間も司法官につかえて、その忠勤(園比屋武御嶽の石門創造、首里城壁の設計などの功績)により1524年(大永4年)竹富大首里大屋子の頭職に(八重山人として初めて)命ぜられ蔵元を創設して20年間は竹富島で八重山の政治を統治したが該地は狭小にて良い港がないため石垣島の大川に移転するに至った。
明治30年(1897年)4月勅命第56号間切島吏員規定の発布により蔵元は間切役場と改称され、八重山は特例を設け一郡一間切として職務は島司これを行い各村の村頭は補助機関とした。西塘が蔵元を竹富島に創設してから373年という長い歴史をもって蔵元は廃庁となった訳である。
明治40年(1907年)勅命第45号をもって沖縄県間切島は各村と改正、勅命第46号をもって沖縄県島嶼町村制が施行され翌41年4月1日からこれを実施した。その結果従来の間切は村に、村は字に改称されたが本郡は特別に八重山村として一村となった。
一村では自治統治上不便であるとの理由から、大正3年(1914年)県令で八重山村は石垣、大浜、竹富、与那国の4ヶ村に分村。竹富村は、竹富、黒島、新城、小浜、鳩間、西表、波照間の7ヶ字が行政区画となった。
昭和23年(1948年)南部琉球軍政府の認可を得て町に昇格し、現在に至る。
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